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第Q交響楽

映画とか音楽とか。

必然の3D:『フラッシュバックメモリーズ』


映画『フラッシュバックメモリーズ 3D』予告編 - YouTube

 3D映画を余り観ないんですよ。3Dってのはあくまで技術であり手法ですから、それ自体にどーのこーのと言う気も無いんですが、それでも同じ作品の2Dと3Dが併映されていれば概ね前者を選択します。基本的に3D上映は通常料金+3D料金で割高になりますね。つまり私はその分のコストに見合った価値を認めていないので2Dを選択しているということになる。

 じゃあ何で認めていないの?理由は二つあって、一つはそんなに真新しいものではないから。何しろTVの興隆に押され動員が減りつつあった50年代ハリウッドの時点で3Dは試されていましたから。というか最初の3D映画が作られたのは20年代ですよ。ダグラス・サーク『アパッチの怒り』を観ていたらサーク作品にあるまじき下手なショットが出てきて何だこりゃと思っていたらそれが3D用のショットでファッキン3Dと思ったりもしましたええ。2008年ぴあフィルムフェスティバルの思い出。まあこういう映画史的な知識はなくとも、私たちは立体視の経験は結構持っていたりしますね。任天堂ハード史上最高にキマったデザインを誇るヴァーチャルボーイとかな。ディズニーランドのマイケル・ジャクソンのアトラクション(キャプテンEO)とかな。この例示の世代を選ぶ感やばいね。因みにキャプテンEO一度無くなって復活したの知らないレベルでTDL行ってません。田村ゆかりさんとどっちが行ってない期間長いだろうかという感じです。えーと後ポピュラーなものとしては青と赤のセロファンの眼鏡で見る立体視ですか。また、静止画の世界では19世紀末にステレオスコープという形で立体視が実現されていたそうです。ともかく3D映画そのものは別段新しくなかった。クオリティはまるで違うとしても。

 そもそも3D映画は何を目指したものなのか。観客を劇場に呼び戻すための仕掛けとして何故50年代ハリウッドは3Dを選んだのか、という視点で考えると、これは原点回帰ではないかと思います。映画史における創世記、1895年12月28日にパリのグラン・カフェでリュミエール兄弟の『列車の到着』を観た観客は、スクリーンに映る列車が「飛び出してきて」自分たちに突っ込んでくるものだと思い、慌てふためいたそうです。何しろ誰も映画を観たことがない、というか映画という概念がまだない時代です。この衝撃は相当なものだったのでしょう。そして、3Dとはこのファースト・インパクトを再現しようとする試みだと考えています。

 ちょっと考えればそりゃ無理だろとなりそうなものなんだけど。何故って映画というメディアのオリジンは映像が「動く」ことにあるのであって、「飛び出してくる」というのは動く映像を初体験した観客の錯覚に過ぎないからです。50年代の時点で映画は既に半世紀の歴史を有していて、先に書いたようにTVも黎明期にあった。動く映像というファースト・インパクトはもう誰もが通過していた時代です。そんな観客がハリウッド映画(=劇映画)に求めるものは何より「面白さ」です。で、これは脚本だとか演技だとか……まあ米アカデミー賞の各部門が評価するようなエレメントに因数分解できます。勿論アカデミー賞にも撮影部門や視覚効果部門はありますよ。ただ劇映画である以上、作品の質を最終的に決定するのは脚本であり演出であるのは疑うべくもない。これがもう一つの理由です。「脚本がダメでも3Dだから面白い」なんてことは無い。大体その論法がアリなら『ファイナルファンタジー』とか『GOD DIVA』とか『エアベンダー』だって良作扱いだっつーの。劇映画における3Dはスパイス以上のものにはなっていないんですよ。劇映画においては。

 

 前置きが長くなりました。松江哲明監督による『フラッシュバックメモリーズ』はドキュメンタリー映画です。そして3Dでなければ成立しない表現を導入しています。

 このドキュメンタリーの主題は交通事故で高次脳機能障害を負ったディジュリドゥ(アボリジニの金管楽器)奏者GOMA。この障害によりGOMAは事故以前の多くの記憶を喪い、また事故後の記憶であっても長期の保持が出来なくなったそうです。クリストファー・ノーランメメント』を想像するといいのかな。あっちは前向性健忘ですけど。映画はこのGOMAにスポットを当てて一人の人間として掘り下げていくことになります。

 松江も語っていることですが、ドキュメンタリーと劇映画の最大の違いは時制にあって、ドキュメンタリーが扱える時制は「現在」のみだということです。様々な時間軸を自在に移動して複層的に語るナラティブの機能を持っていない。何を語るにせよ「現在」が基準点になってしまう。これは「現在」しかないGOMAを撮るのにドキュメンタリーが最適な手法であったことを意味します。しかしGOMA自身が記憶できるのが「現在」だけだとしても、実際には様々な「過去」がレイヤーとして積み重なり「現在」を象っているはずです。そうであるならばドキュメンタリーとして「現在」にフォーカスしながら尚且つ、喪失された「過去」と忘却されていく「過去」を描かねばならない。3Dはその解法として選択されました。

 『フラッシュバックメモリーズ』は渋谷WWWで撮影されたGOMAと彼の率いるバンドThe Jungle Rhysm Sectionのライブ演奏(ハイパー・ドープな人力・ミニマル・ドゥーミー・コズミック・グルーヴが5.1chで響いてくるのでバウスの爆音で観たら最高)を3Dで現前させつつ、背景にGOMAの過去の記録を投影する形式を基本とします。積み重ねられた過去の、文字通り「上」に現在のGOMAがいるという構造。これを<語り>ではなく<映像>として提出するための、必然としての3D。

 ライブ映像はカメラが演者に肉薄し、極めてフィジカルな画として仕上げられています。一方で背景はもうGOMAが失ってしまった事故以前の記録、そして事故以後、忘れてしまうことを前提で本人が記し続けた日記を映します。日記には忘却への恐怖も記されていますが、いつかこれを読むであろう将来の自分に宛てた希望に満ちたメッセージも刻まれています。現在と過去という階層(レイヤー)の他に、肉体と精神という階層が構築されているわけです。

 

 GOMAの発するメッセージや彼を支える家族の愛情には胸打たれます。それ以上に自分が打ち震えたのは、映画の新しい可能性を見せてくれたことにあります。この作品で鳴っている音楽は本脳と身体にダイレクトにクるダンサブルなもので、それを基軸にフラッシュバックという映画の文法で構築された3D映像が展開される。音と映像から成る映画というメディアで、映画であることを十全に活かす形で、こうした新しい表現を提示してくれたことがとても嬉しかった。