第Q交響楽

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西部劇の亡霊:『アルゴ』が召喚するイメージ


映画『アルゴ』予告編

 

スリルの在り処

 ベン・アフレックの監督・主演による『アルゴ』はサスペンスとしては何とも奇妙なフィルムです。主人公たちにこれからどのような困難が立ちはだかるのか、作中で明言されてしまう。つまりサスペンス映画の醍醐味たる「スリル」は予告されている。先に奇妙と書いたけれど、これは極古典的と言い換えることも出来るでしょう。ハリウッドの娯楽映画が培ってきたスリルの文法を陳腐なまでの馬鹿正直さで運用しているからです。しかし、それでもこの映画はスリリングで、エンターテインメントとして成立している。これは何なのか。

 

 基本的なストーリーは1979年の在イラク米大使館襲撃事件に基づいています。襲撃の混乱の中で大使館から脱出し、カナダ大使の邸宅に匿われた6人の職員。彼らを国外へ退避させる為にCIA局内で白羽の矢を立てられたメンデス(ベンアフ)。そして、メンデスが立案した作戦とは、6人を映画の撮影を目的に入国したクルーだと偽装し、空港から正式な手続きの下に出国させるものだった……。

 事実は小説より奇なりとはよく云ったもので、この作戦は実際に遂行され、そして成功しました。成功。そう、成功です。6人とメンデスは無事にイラクを脱出し、アメリカ本国へ帰還した。

 これはつまり、本来プロット上最大のサスペンスとして機能する筈の「彼らは生き残ることが出来るのか?」が前提の段階で無効化されたことを意味します。勿論事前情報を全く入れないで観る場合は別ですが、公式からしてこの「ネタバレ」を全面に押し出している以上、それは骨子ではないんでしょうね。冒頭で書いたように、この映画はスリルが予告されながらも尚成立する強度を持っている。

 

 『アルゴ』のそうした特徴が最もよく見えるのが、国外脱出を賭けた空港のシークエンス。このシークエンスの冒頭、メンデスが撮影クルーに偽装した6人に向かってこう話します。「空港での関門は四カ所。搭乗予約の確認、税関……」この時点で以降に4つのシーンが待ち受けていると観客に開示しています。

 第一の関門となる搭乗予約の確認のシーンは次のように展開します。当初予約されていた席はCIAが一度作戦を破棄した段階でキャンセルされており、一行は足止めを食らう。メンデスから作戦の強行を知らされた上司は、各方面に連絡を取り、最終的に作戦続行の許可をカーター大統領から取り付ける。即座に再度の予約を指示し、係員が再確認を行うギリギリのタイミングでリザーブを成功させる。

 文字に起こすともうこれはご都合主義の極地というかなんというか。空港とラングレーで時間の進み方違うんじゃないのという具合だし。しかし、ご都合主義を如何に演出するのか、そのノウハウを一世紀に渡って磨いてきたのがハリウッドです。

 ここでは古典的で何の真新しさもないラスト・ミニッツ・レスキューが使われます。最終的に解決されるべき目的=「再度のリザーブ」を達する為の、幾つかの細かい障害が用意されるでしょう。カーターの許可を得る必要があるが、まずはカーターにコンタクトを取る為に別の閣僚にアタックをかけねばならない……といった具合に。各コンタクトが電話で矢継ぎ早に行われる合間に空港での一行のカットがザッピング的に挿入され、緊迫感を煽ってきます。そう、事象だけ見れば脇役が電話で喋っているだけですよ、ここ。手抜き呼ばわりされてもしょうがないくらいにチープなのに、でもスリルはある。

 つまりここでのスリルはアクションに依っていないということです。空港の一行は係員が確認を取るのを待つしかない。ラングレーの動きは観客しか知り得ない。座して待つのみ(実際は立って待っていますが)のメンデス一行、彼らを援護すべく奮闘するラングレー。観客はそのどちらでもない第三の立場、両者の断絶の狭間にいます。います、というより「編集が観客の立ち位置をそこに固定した」と表現すべきでしょうか。全てが開示され全てを知っていながらただ見守るしかない。その焦燥感がスリルに変換されるという機能的な構造こそが『アルゴ』の編集の優れた点です。

 

「とりわけアメリカ的なジャンル」(アンドレ・バザン

 さて、ちょくちょく見かけた批判で、アメリカ賛美アメリカ偏重に過ぎるというものがあったんですが、これはよく分からない。ある種の傲慢さがある確かですけどね。

 大体当時の社会情勢をさっさとナレーション(=地の文、つまり事実として)で紹介し、当時のニュース映像をこれでもかと本編に挿入しているんだから偏重も何もないんじゃないのと。むしろフェアなスタンスを積極的にアピールしている感さえあるし。もっともそのアピール故に逆に胡散臭く感じられる部分も同時にありますが、まあどの道これは印象の問題にとどまりますね。ここでもう一つの理由として強調したいのは、クライマックスで立ち現れる強烈な「ハリウッド」のイメージです。

 アメリカ人の死体を市内に吊り下げたり、嘘映画のイメージボードを渡され無邪気にはしゃぐ過激派兵士の姿はステロタイプな「蛮族」のものです。メンデス一行の正体を悟った蛮族たちは、一行の搭乗した離陸寸前の飛行機を武装車で猛追する。銃を掲げ、雄叫びを上げながらーーそう、これは古典的な西部劇のイメージです。白人の乗った駅馬車を襲撃するインディアン。メンデスが用意した切り札にしてアメリカが誇る国家装置=ハリウッドがかつて描き出した西部劇の1シーン。それが『アルゴ』のクライマックスに亡霊の如く立ち現れているわけです。

 ベンアフが如何なる政治思想を持っているのか、或いはこの映画のイデオロギー的傾向を想定していたのか詳しくはわかりません。アメリカ賛美的に描こうとしたのかもしれないし、同時にそれをカモフラージュするためにフェアな視点を導入したかったのかもしれない。しかし、作り手の意図を超越したテクストの領域で『アルゴ』は極めてアメリカ的であり、それ故にアメリカ的であることへの自己批判をコードとして内在してしまっている。おれがこの映画を気に入っている最大の理由はここにあります。

 ラストシーンもまた西部劇とハリウッドのイメージで彩られています。全てを終えたメンデスは別居していた妻と息子の待つ家に帰る。ショットの構図は家の中、玄関を正面に捉えている。夫婦は抱擁とキスを交わすが、その時家の外に掲揚された星条旗がメンデスの背後で多靡いている……というものです。『アルゴ』作中で「ジョン・ウェインがいなくなってからハリウッドはダメになった」という趣旨の台詞がありますし、このラストシーンで『捜索者』のウェインを連想するのは間違いではないでしょう。そして当時のハリウッド映画のキャラクターグッズが並んだ部屋にいるメンデスと息子のショットで映画は終わります。ハリウッドへの技法的・映像的オマージュを(恐らくは無邪気に)捧げることで一つのクリティックなフィルムとして成立しているのが面白いなあと思うわけです。そんな作品がアカデミー賞という形で評価されたことも含めてね。

 

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